旅・歴史 会津藩と保科正之
お江の陰に怯えた結果。。。
その後、お江に待望の男子が授かります。家康は大いに喜び、家康も秀忠と同じ竹千代と名付けられました。お江にとっては、本当に待望の男子でしたので、これで大いに生母としてプライドも守られました。
しかしながら、この竹千代は、秀忠・お江の手元を離れ、養母としてお福(春日局)のもとで育てられることになります。これは当時の慣習で致し方ないことなのですが、お江にとっては、厳しい現実であったと言われます。
その後、國千代が生まれるに当たり、この子は自分の手元で育てたい、と切望したと言われます。このことが、新たな火種となって、後に大きな事件が起こってしまうのでした。
さて、お江は秀忠との間には7人の子供を設けました。しかも男子二人も含みます。これでお役御免というところですが、やはり人一倍嫉妬心は強かったようです。一方、秀忠はお江よりもだいぶ若く、戦国の世を生きてきたたくましい武士です。やはりまた浮気をしてしまうのです。
そこで設けられた男子が、この保科正之だったのです。
正之の母は、妊娠が分かった段階で、秀忠から遠く離されます。然るべき家柄へということで、武田信玄の次女である、見性院へ預けられ、そこで出産となりました。名を幸松と言います。武田家は、家康の子供である信吉が継ぎ、武田家を再興していましたが、病弱なためわずか21歳で亡くなりました。ひょっとしたら秀忠と見性院の間で、再度武田家再興が握られていたのかもしれません。
秀忠としては、長丸の一件もあり、お江には絶対にばれたくなかったようです。しかしながら、噂は広がり、お江の知るところとなってしましました。このまま江戸に置いていては、また何かあってはいけない、そう恐れた秀忠は、幸松を旧武田家臣である保科家へ預けることにしました。