Wanderlust 勝どきで働くヘッドハンター、小林毅の公式ホームページ

▼ 旅・歴史

▼ 趣味・スポーツ

▼ LIFE

旅・歴史 備中高梁の旅

山田方谷

山田方谷(ほうこく)です。幕末に活躍した陽明学者であり、備中松山藩の藩政改革に成功しました。地元では駅名にもなるくらい尊敬されており、大河ドラマの題材としての運動もしているとか。

山田方谷(ほうこく)です。幕末に活躍した陽明学者であり、備中松山藩の藩政改革に成功しました。地元では駅名にもなるくらい尊敬されており、大河ドラマの題材としての運動もしているとか。

登山には時間が掛かりましたが、下山はあっという間でした。その後自転車に乗って、武家屋敷へ。5分くらいの距離でした。とてもきれいに整備されており、うち2つの武家屋敷を見学することができます。当時の武家の典型的な屋敷ということでしたが、藩自体が小さいので、とても質素なつくりでした。部屋数も3つくらいしかないので、厳しい生活であったと思います。江戸時代の武士の生活は、司馬遼太郎の言う、読書階級となりますが、地方の小藩の武士は、農業も庭などでやっており、生きるために苦労をしていたようです。

この備中松山藩も、5万石という触れ込みでしたが、実測してみると、わずか1万9千石しかなく、更に大阪の両替商に10万両の借金が江戸末期にはあったそうです。長年、そのことをひた隠しにして、問題を先送りにしていたのですが、そこに登場したのが、山田方谷です。方谷は現実をしっかりと開示し、借金も金利を負けてもらうなどの交渉を行い、そして新たな地場産業を掘り起こすなどの藩政改革を推進し、見事成功をおさめます。10万両というと、現在価値にすると600億円と言われます。その借金をわずか7年で返済し、更に同額を貯蓄するという素晴らしい実績を残します。

方谷が行った改革は主に以下となります。

・藩の実収入を開示し、借金を50年返済にしてもらえるよう交渉に成功
・大阪の蔵屋敷を廃止し、すべて藩内で管理。飢饉のときは領民を救うため迅速な対応に成功
・上級武士の特権、収賄を固く禁止し、下級武士並の生活を要求
・財源不足を補うために安易に発行された藩紙幣を回収し、公衆の前で焼却処分。その後、新たに藩札を発行し、貨幣の安定・信頼回復に成功
・領内で取れる砂鉄から備中鍬を考案。またタバコ・お茶・和紙・柚餅などの地場産業を推進し、多くの利益を得る
・藩士以外の領民にも教育を推進し、優秀な人材の登用を積極的に行う
・目安箱を置き、領民の意見を広く聞いた
・武士に変わって農兵制を導入。これを参考に長州の騎兵隊が生まれ、長岡藩にも模範とされた

この藩政改革には、多くの抵抗がありましたが、方谷は藩全体の利益のためであることを強調し、批判を一顧だにしなかったと言います。方谷自身も、加増を辞退し、むしろ自分の財産も減らしています。この方谷の改革の結果、5万石どころか、備中松山藩は、20万石の実力を持つ藩へと成長することになります。この改革は、長州藩の手本となり、明治維新を加速させる結果となったと言われます。