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石田三成の高い能力とその功罪

2013年08月30日

今回は趣向を変えて。

天下分け目の関ヶ原、と言われますが、歴史好きの私はとても興味深く研究している題材のひとつです。研究と言っても、文献をあさったり、関連する書物や小説を読んだりするのみで、それ以上何をするというでもないのですが、なぜそんなに魅かれるのかというと、組織論を考えたときに、これほどの一大決戦がどのような演出によって描かれたかという点です。

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉が他界し、後継者の秀頼が幼い子供であったため、誰が主導権を持って政権を運営するかというところがそもそも論となります。その中で天下の器というのが徳川家康しかおらず、彼を中心とした政権となることが自然でした。秀吉の遺言もそうでした。

しかしながら、それを石田三成が政権乗っ取りではないかという危機感を感じ、打倒徳川家康を旗印に、あの関ヶ原合戦を演出するのです。

ここで面白いのが、徳川家康は当時で250万石以上の大大名である一方、石田三成はわずか19万石に過ぎません。導入できる兵力も自ずと差が出ますし、そこで振られる恩賞という名の手形の重さも、家康とは比べ物にならないほど軽いはずでした。

しかしながら、実際は西軍は毛利や宇喜多、小西、上杉、島津などの大名を味方につけることに成功し、実際の兵力でも東軍に勝っていたと言われています。これは石田三成が黒子に徹したからであり、恐らく、小早川の裏切りが無ければ、西軍が勝利していたでしょう。そのくらい、演出においては完璧でありました。

一方、石田三成はその才能が有り余るばかり、各武将の心を掴むところまでは配慮が回らなかったことも事実でした。人を小馬鹿にする癖があったようです。小早川の裏切りもそうですが、島津も関ヶ原には来たものの、東軍とは戦いませんでした(逃げる時に戦ったのみ)。何故かというと、島津が出した夜襲案に石田三成が全く取り合わなかったからと言われています。島津はへそを曲げてしまったのです。

そういう意味では、大将としての器ではなかったということでしょうか。

さてその三成は関ヶ原で負けたことが印象に強いですが、いくつかの大業をやってのけています。

例えば、秀吉の九州征伐において、当時九州全体を支配していた島津氏を現在の鹿児島のみに減封したとき、経営コンサルティングのような立場で、薩摩藩の運営に的確にアドバイスしています。石高だけを考えると、九州全体から薩摩のみになると、経営は立ちいかなくなる訳ですが、そこを発想の転換を図り、今後の新しい時代に合った考え方を伝え、帳簿の付け方や米だけに頼らない産業振興など、都でのトレンドを伝授し、藩運営に一役買っています。

また、秀吉が朝鮮に出兵した際、その輸送計画から補給などを一切指揮しています。この朝鮮出兵は、秀吉の最大の汚点ですが、これを可能にしたのが三成の能力であったと言われています。そこで実績を挙げることで、この戦いを泥沼化させてしまったという皮肉もありますが、大した能力であります。

この能力の高さが、朝鮮の役で苦労し、のちの関ヶ原合戦で東軍に従事する、加藤清正、福島正則、黒田長政などの恨みを買ってしまうという原因になっています。そんな彼らの気持ちを上手く扱ったのが家康なのでした。

石田三成は、もし現代に生きていたら、かなり優秀な高級官僚か、成長企業のナンバー2になっていることでしょう。決してナンバー1ではないと思います。

秀吉という存在があってこそ光る、それが石田三成だったのでしょう。