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三島 頼朝と義経の対面石

頼朝と義経が初めて対面したときに座ったとされる石です。その後ろが柿の木で、渋柿を食べた頼朝が、「まずっ!」と言ったかどうかは定かではないですが、捨てたものがこのように生えたと言われています。

頼朝と義経が初めて対面したときに座ったとされる石です。その後ろが柿の木で、渋柿を食べた頼朝が、「まずっ!」と言ったかどうかは定かではないですが、捨てたものがこのように生えたと言われています。

候補者が三島に住んでいたので、面接対策のために訪問。
その後候補者と別れ、さあ、お目当ての八幡神社へ。

なぜかというと、「対面石」なるものがあるからです。これは、平氏打倒のために挙兵した源頼朝のもとへ、奥州平泉からわずかな手勢を率いて、腹違いの弟、義経が馳せ参じた際、初めて面会した場所と言われる石なのです。ちなみに、その後ろにある木は柿木で、その時に頼朝が食べた柿が渋柿だったため、ひねって捨てたものが生えたもの、ということです。伝説は、いろいろな偶然を演出します。

三島観光案内に行き、八幡神社の場所を確認。歩いていけますか?と問うと、二名の職員さんともに、う~ん、とうなっています。結論、無理です、ということ。
バスは~、というと、夕方までないとのこと。そうすると、レンタルサイクル(電動式)があるので、それを借りることに。3時間500円ということで、割とリーズナブル。結論、大正解でした。

駅前から八幡神社まで、約20分くらいだったと思います。絶対歩けない距離でした。今後も、自転車は活用したいと思います。

 頼朝は平治の乱の際、父義朝に従い、出陣をします。しかし結果は、平清盛らに敗れ、義朝は殺されてしまいます。この時、頼朝も捕えられ、首を刎ねられるところでしたが、清盛の母、池禅尼に助命をされ、伊豆へ流されることになります。まだ幼い子供を殺すのは忍びない、ということで助けられたのです。

一方、義経はというと、まだ乳飲み子で、生母常盤御前に抱かれ、二人の兄弟とともに逃げていましたが、常盤御前の母親が捕らえられたということで、清盛の前に出ていきます。この兄弟3人、いずれも男子でしたが、これまた助命されます。これは、常盤御前があまりにも美しく、助命を懇願するその美貌に清盛が負けたということのようです。

この女が手に入る、というスケベ心が働いたことが、のち、平氏の身を滅ぼした、と言えばそれまでですが、元来清盛は優しい人だったのでは?、と思ってしまいます。2012年の大河ドラマは「清盛」ですので、今から楽しみにしています。

その後、この助命が仇となり、頼朝と義経に平氏は滅ぼされてしまいまいます。後の世はこれを習いに、負かした側に男子がいれば、すべて殺すことになります。武家の習い、ということです。

 頼朝は、自分の立ち位置がわかっていた人でした。源氏の棟梁として、東国武士団をまとめ上げます。それが平氏との大きな差となったということです。平氏のように、「平氏にあらずんば、人にあらず」というような、一族だけが良い、では、時代は治められない、武家社会を作っていくためには、武家としてのルールを創造しなければいけない、という目線を持っていたのです。この姿勢は、徳川家康も手本としました。

一方、義経はというと、源氏の嫡流であることで、源氏中心の世になれば、という平氏と同じ発想を持っていました。だから、頼朝の弟ということで態度も大きく、度々武士団と衝突します。組織としては規律を重んじなければいけませんが、自分は特別である、と言わんばかりに、行動は独自性を追求していきます。要するにKYであったのでしょう。

そして、平氏打倒を果たしたのちも、朝廷から勝手に官位を授かったり、取り返した三種の神器を勝手に返納したり、と身勝手極まりない行動が目立つことになります。

そうなったら頼朝も態度を決めなければいけません。武士の棟梁として、ついに義経追放を決意します。ことの重大さにやっと気づいた義経は、鎌倉へ謝罪に向かいますが、腰越にて留め置かれ、ついに面会を許されませんでした。

義経は、ただ純粋に源氏の世が来ることを夢見、そして兄に尽くしていたのだと思います。でも、時代を読む力はありませんでした。兄に尽くした結果、その兄によって奥州平泉にて生涯を閉じますが、この石を見ると、純粋に思い焦がれていた兄頼朝に会えた義経の喜びが感じられる、不思議な気持ちがしたのでした。