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旅・歴史 大阪城と豊臣家滅亡について

大阪夏の陣と豊臣家滅亡

秀頼と淀殿終焉の地です。

秀頼と淀殿終焉の地です。

冬の陣が終わったときの和議には、大阪城は本丸だけ残し、二の丸、三の丸は破壊、そして外堀を埋める、というものがありました。そして受け持ちが決まり、二の丸は豊臣側、三の丸は幕府側が担当となります。しかしこのときの幕府の対応があまりにも素早く、あっという間に受け持ち分が終わると、手伝うという強いおせっかいで、あっという間に大阪城は裸城となってしまいます。

もうこれ以上反乱を起こさない、という意味でも、堀が必要かという議論になるのですが、結局このことがまた仇となり、大阪夏の陣が起こってしまいます。

このとき、召し抱えた浪人が数万規模で膨らんでおり、いずれも徳川幕府に恨みを持っていたので、本当に家康の懸念通りに秀頼が担ぎ上げられた形になってしまいました。このとき秀頼は大阪より国替えも応じてもいいという意向を持っていたということでしたが、膨れ上がった浪人たちはそれを許さず、仕方なく挙兵に及んだという経緯があったようです。

夏の陣は城が裸城となっているので、各地で戦いが起こります。家康は出陣にあたり、「三日分の腰兵糧でよい」と言ったといいます。

そして主戦力たる浪人が各地で戦死することでついに大阪城は炎上します。このとき、秀忠の娘千姫は城を脱出し、和議の使者となり、豊臣家存続を願い出たとも言われます。このときに家康は秀頼を殺そうと考えたのでしょうか。それとも、生かそうと思ったのでしょうか。答えはわかりませんが、大河ドラマ「徳川葵三代」においては、山里丸にある櫓にて自刃した際、「しまった!」と大声を上げるという演出がされていました。さて真実は如何に・・・。

豊臣秀頼には実は側室に産ませた子供が二人いました。一人は国松といい、男子であることから斬首されてしまいます。享年8歳。もう一人は奈阿姫といい、女子であったため助命され、縁切り寺として有名な鎌倉東慶寺へ出家します。37歳まで生きたそうですが、これで秀頼の直系は滅亡することになります。

さて最後に、そもそも豊臣秀頼が秀吉の子だったのか?という疑問は尽きません。あれだけ側室を設けたのに、淀殿だけが2度出産しています。そもそも淀殿の母は、織田信長の妹お市の方です。浅井長政の死後、柴田勝家に嫁ぎますが、これを滅ぼしたのは秀吉なのです。現代の感覚で言及すると、母の敵である秀吉に対して、秀吉の子でない秀頼を最後まで子であると考えて死なせたとすれば、最大の報復であったと感じてしまいます。

歴史の真相は常に闇の中です。

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