趣味・スポーツ 『永遠のゼロ』を読んで
特攻隊について
この永遠のゼロでは、特攻隊のことをテロリストである、という描写があります。当時の日本人は、天皇陛下という神を崇め、そのため喜んで命をささげたから、というものです。
確かに、特攻隊員の残した遺書などを読むと、日本のために死んでいくことが誇りである、など書かれていたりします。果たして本当にテロリストだったのだろうか、という点もしっかりと書かれています。
戦況が悪化する一方の中で、いつ降伏するか、ということだけだったはずなのですが、負けることがどういうことか、という点に当時の日本は怯えていたと思います。
日露戦争は、迫りくるロシアの恐怖に対し、今のうちに食い止めなければいけないという自衛本能から、朝鮮半島は死守したいという都合で始めたものでした。
太平洋戦争も、日本包囲網を解くための、自衛戦争であったという気持ちは多くの人の共通認識であったと思います。(そこには隣国の都合は考慮されていない)
同じく勇ましく戦った日本国民でしたが、大きな違いがあるとすれば、大本営の器だったと思います。
日露戦争では、大山巌や井上馨など、幕末維新を最前線で戦った人たちが幹部として率いていました。比して太平洋戦争では、大本営の無能ぶりが残念でなりません。
その最たるものが特攻隊の編成です。
初めて特攻が行われたときは、戦況を変えるために一時的に用いられたのですが、その後は常態化し、最後には飛行機があるから続けたということ。当時の人たちは、特攻で成果が挙げられるかとは思っていなかったと思いますが、誰も口にはできない環境だったようです。
特攻は、いわば人柱と同じです。どんな絶望的な戦いでも、生きて帰る可能性は数%はあります。しかし特攻はゼロです。飛行機にトラブルが無い限り、100%生きて帰ることはできません。
そのような作戦があるのでしょうか?
戦争は国と国のケンカですが、ケンカならば、止め時、引き際も最初に立てておくべきであると思います。当初立てた、先制攻撃の上、有利に和平交渉を、という線が崩れたとき、どのように修復するかが恐らく無かったと思います。
今私たちは、映画やその他映像を通じて、当時を知ることができます。
例えば、『硫黄島からの手紙』は、日本軍の予想以上の抵抗について、クリントイーストウッドにより描かれていますが、その絶望的な戦いを強いられていた日本軍に比して、米国軍は休みがあったと言われます。
人の命の重さが日本と米国では違う、ということなのでしょうが、それにしても、と思ってしまいます。