LIFE 経営者インタビュー~小松俊明氏~
そして経営者として独立開業をする
H:外資系ヘッドハンティング会社を辞めなければならなくなったとお聞きしました。それはいつのことですか?
K:2008年の9月です。丁度リーマンショックの直前でした。
H:私の在籍していたヘッドハンティング会社も、その当時、大きなリストラをやりましたよ。
K:そうですか。ただ2008年夏、自分にしても、チームにしても、成績はよかったんですよ。業績が原因ではなかったはずなんです。
H:そうなんですか、ではなぜ辞めることになったのですか?
K:未だに本当の理由はわからないんです。北京五輪が開幕して間もなかった8月上旬でしたが、当時の外国人社長から呼び出され、突然解雇通告を受けたのです。
H:それは驚きますね。
K:はい、自分も正直戸惑いました。社歴が一番古い社員の一人でしたし、仕事仲間にも恵まれていましたので、当時の自分は特に会社を辞める予定はありませんでした。ただ、会社の性格的には、私が在籍していた7年間の間だけでも社長が5回かわり、毎回、社長は解雇されていました。そんな流れの中で、私自身も社内政治に巻き込まれてしまったのかもしれません。
H:でも結果的にそのヘッドハンティング会社は日本から撤退したのですよね?
K:そう。私が辞めた半年後にね。50名ほどの社員が在籍していましたが、全員解雇されました。結果的には、マネジメントスタッフだった私は、ほかの社員達よりも半年先に辞めさせられた、ということでした。
H:もし日本から撤退する時点で小松さんが残っていたとしたら、会社も少し面倒だったかもしれませんね。
K:そうですね。社歴の長い唯一の日本人のマネジメントスタッフでしたし、日本の労働法にも比較的詳しかったですから。まぁ、これもまた運命だったということでしょうか。今、世の中は大失業時代だと言いますが、身をもって雇用を失うことを経験したのは、そのときは辛い思いもしましたが、振り返ってみれば良い勉強になりました。
H:そこでご自身の会社を立ち上げた。
K:そうですね。リクルーターズ株式会社を2008年9月に設立しました。退職の話が出てすぐですよ。
H:切り替えが早いですね。他のヘッドハンティング会社に転職する選択肢は考えなかったのですか?
K:幸い声をかけてくださる会社がいくつかありましたが、自分の中では気持ちは固まっていました。成果主義である外資の良さを経験した一方で、外資系企業を卒業する時期が来ていることを実感していたからです。年齢も40代に入ってまもなくでしたが、二度目の起業は「事業を興す」というよりも、自分自身の活動をマネジメントする「個人のタレントマネジメント会社を作りたい」と考えたのです。
H:というと、人材紹介業に特化した会社ではない、ということですか?
K:もちろん、当面は人材紹介事業を自分のコアビジネスに置くところから始めましたが、これまでの経験を色々な新しい分野、例えば人材育成や教育の分野で活かしてみたいと考えました。
H:いわゆる「フリーエージェント」の働き方ですね。
K:そうです。欧米で一気に進んだフリーエージェント社会が、最近、日本でもその土壌が整ってきたように思います。一例として、あるドイツの自動車メーカーの主力モデルのカーデザインをフリーランスの日本人デザイナーが担当した話を知りました。そのニュースを聞いて、これだ!と思いましたね。
これは正社員として働くことや、従来型の下請けやアウトソースという枠組みではなく、あくまでも社外コンサルタントとして企業とプロジェクトごとに契約して、事業にとって重要な役割を果たすこと、このような働き方ができる時代が来ていると確信したのです。
個人が持つ能力やタレント性を活かし、社会や企業と付き合っていくフリーな状態に自分を置くことで自由を確保し、やりたい仕事をやりたいだけやる、そのような自由なスタイルで仕事をしていきたいと考えるようになりました。
H:ところで小松さんはたくさんの本を出版されていますね?
K:2002年から書くようになりました。マレーシアで出版社を営んでいましたからね、ものを書くことは苦にならなかったんですよ。あるとき、たまたま転職情報の業界誌に連載の執筆依頼を受けたんです。その連載を見た編集者から、本の執筆依頼をもらうことがあり、それ以後、毎年2,3冊のペースで本を書くようになりました。本のテーマも、転職やキャリアに関する内容はもちろん、仕事の効率的な進め方、例えばタイムマネジメントやリーダーシップ、コミュニケーションなどのビジネス書を書くようになりました。
K:私もお手伝いさせていただいたことがありましたね(笑)
H:そうそう、『転職の青本』のムック版を出版するときですね。あの時は、座談会のようなページでご協力いただきました。