LIFE 杉原千畝氏の残したもの
日本政府の対応
杉原氏は、ヨーロッパ情勢の激変に触れ、恐らく大量の難民が出てくることを予想していました。そこで事前にビザの発給枠を増やしてくれるよう、日本政府へ要請していました。ところが、政府の回答は否でした。
当時の日本政府の立場は、大変微妙なものでした。アジアでの日本の立場は、満州国建国などに付随し、世界各国から非難の的でした。
国際連盟も脱退し、孤立状態でしたが、一方で、第一次大戦の戦勝国でもあったので、考え方によっては、ドイツ側、米英側につくこともできたということです。しかしながら、流れとしてはドイツとの同盟に動いており、その流れで、対ユダヤ人対策も微妙でありました。
日本政府として、ユダヤ人を保護する動きをすれば、ドイツから何を言われるかが分からない、そんな状況だったのです。
人道的立場で考えると、杉原氏の要請は全く正当なものであると思います。しかしながら、国としては難しいということです。
このような状況で、杉原氏がビザを発給することはできません。国の方針に背く行為ですから、大変重い決断を迫られます。記録によると、4日間悩んだということでした。
悩んだ結果の結論は、ビザ発給、という英断でした。
発給すると決めたら、もう後先を考えることは無意味です。領事館を取り囲むユダヤ人に対し、ビザを発給し続けます。当時はすべて手書きであったので、大変な労力が強いられるものでした。
それでも体力が続く限り、発給し続けます。ビザを受け取ったユダヤ人たちは、それはもう、大変な喜びようであったということです。
杉原氏のこの行為は、リトアニアから転属になり、最後の移動汽車内まで続いたと言われます。そして汽車が発車したときこう言います。
『ごめんなさい。もうこれ以上できません。あなた方の無事を祈っています。さようなら、許してください。』